
夢の中で、美緒は、畑の真ん中にしゃがみこんでいた。
足もとの土が、もぞもぞと動いている。黒い粒のようなものが、次々と這い出してきて、長靴を越え、膝を越え、腕へとのぼってくる。
払っても、払っても、虫は減らない。それどころか、払うたびに数が増えていく。
声をあげようとしたところで、目が覚めた。
古い農家の天井が、ぼんやりと見えた。腕をさすると、鳥肌が立っていた。
◇
東京の会社を辞めて、この山あいの村に来たのは、春のことだった。
農家の森山さんのもとで、一年間、野菜づくりを学ぶ。七十五歳の森山さんは、口数は少ないけれど、畑のことなら何でも知っていた。
最初のうちは、何もかもが新鮮だった。朝の土のにおいも、とれたての菜っ葉の甘さも。
けれど、夏が近づくにつれて、美緒には、どうしても慣れられないものが出てきた。
虫だった。
小松菜の葉の裏には、緑色の青虫が、びっしりとついている。森山さんは、それを指でつまんで、ひょいひょいと取っていく。
美緒は、軍手をはめた手を、葉の手前で止めたまま、動けなかった。
「すみません。わたし、どうしても……」
「いいよ。今日は、見るだけで」
森山さんは、それ以上、何も言わなかった。
◇
虫の夢は、それから何度も続いた。
夢の中の虫は、いつも、腕をのぼってくる。目が覚めるたびに、美緒は、情けなさで胸がいっぱいになった。
虫だけではなかった。
「東京の人には、無理じゃないかねえ」
寄り合いで、近所の人に、笑いながら言われた。悪気がないことは、分かっていた。それでも、その言葉は、葉の裏の虫のように、美緒の中に住みついて離れなかった。
役に立てているのか。森山さんの迷惑になっていないか。夜、布団に入ると、そんな考えが、もぞもぞと這い出してくる。
東京にいたころも、同じだった。資料の誤字ひとつ、返信の遅れひとつが気になって、眠れない夜が続いた。全部ちゃんとしなければ、と思うほど、気がかりは増えていった。
だから、ここへ来たのだ。土にふれて暮らせば、何かが変わる気がして。
それなのに、虫ひとつさわれない。美緒は、暗い天井を見つめて、小さく息を吐いた。
◇
七月のある日、森山さんが、畑の隅で手招きをした。
「ほら、これ」
農具小屋の木箱の上に、小さな虫かごが置いてあった。中には、青虫が一匹と、その横に、薄い緑色のさなぎがひとつ。
「見るだけ。毎朝ね」
その日から、美緒は、虫かごを毎朝のぞくようになった。
最初の数日は、目を細めて、すぐに顔をそむけた。けれど、一週間もすると、青虫が葉をかじる小さな音が、聞こえるようになった。
ある朝、かごをのぞきながら、美緒は聞いてみた。
「森山さんは、虫、怖かったことないんですか」
「あるよ」
森山さんは、あっさりと答えた。
「二十二でこの家に嫁に来たときはね、青虫ひとつで泣いてたの。そしたら、お姑さんが、これを置いてくれた」
森山さんは、古びた虫かごを、指でとんとんとたたいた。
「怖いのは、知らないからだって。それだけ言って、あとは何も言わなかった」
美緒は、かごの中の青虫を、もう一度見つめた。小さな口が、葉のふちを、せっせとかじっていた。
十日目の朝、さなぎの殻が割れて、白い蝶が、ゆっくりと羽を広げていた。
美緒は、気づけば、かごのふたを開けていた。
蝶は、しばらく美緒の指先にとまってから、畑の向こうへ飛んでいった。
◇
夏の終わり、村では、虫送りの行事があった。
日が暮れると、村じゅうの人が、たいまつを手に田んぼのあぜ道に集まった。先頭には、「実盛さま」と呼ばれる、大きなわら人形が担がれている。
鉦と太鼓が、にぎやかに鳴った。
「虫送りってね、虫を殺すお祭りじゃないんだよ」
隣を歩きながら、森山さんが言った。
「昔、稲の株につまずいて討たれた侍がいてね。その無念が虫になったんだって。だから、なだめて、村の外まで、ていねいに送ってあげるの」
炎の明かりが、田んぼの水面に揺れていた。
美緒は、自分の中に住みついている虫のことを考えた。「無理じゃないかねえ」という言葉。役に立てていない、という不安。
退治しようとするから、増えるのかもしれない。
そう思ったとき、ふっと、肩の力が抜けた。
◇
行列が村境の川に着くと、人々は、わら人形を川辺に置き、手を合わせた。
その帰り道、寄り合いで美緒をからかった近所の人が、声をかけてきた。
「あんた、今年の小松菜、よくできてたね。森山さんが自慢してたよ」
美緒は、思わず森山さんを見た。森山さんは、知らん顔で、たいまつの火を消していた。
家に戻ると、美緒は、ノートを開いた。
胸の中に住みついている、気がかりをひとつずつ書き出した。書き終えると、そのページを破って、小さく折りたたんだ。
明日の朝、畑の隅で燃やそう。虫送りの火のように。
◇
その夜、美緒は、また畑の夢を見た。
足もとの土から、黒い虫たちが這い出してくる。長靴を越え、膝を越え、腕へとのぼってくる。
けれど、美緒は、もう払わなかった。
虫たちは、腕の上をしばらく歩いたあと、ひとつ、またひとつと、白い蝶に変わって飛びたっていった。
蝶の群れは、あぜ道をたどり、村境の川のほうへ、ゆっくりと遠ざかっていく。
美緒は、立ちあがって、その白い光が見えなくなるまで、見送っていた。
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