
夢の中で、お糸は、美しい着物を着て、大きな橋を渡っていた。
すれ違う人たちが、みな、ぎょっとしたように目をそらす。不思議に思って胸元を見下ろすと、衿が、左前に合わさっていた。
死んだ人の着方だ。
直そうとしても、指がこわばって動かない。橋の向こうは白くかすんで、どこまで続いているのかも分からなかった。
目を覚ますと、店の二階の暗がりで、自分の胸が、どくどくと鳴っていた。
◇
江戸、富沢町。古着屋の並ぶ通りの一軒、「丸屋」に、お糸が奉公に来て二年になる。
下総の村で母を亡くし、親戚のつてで江戸に出てきた。十四になったいまも、着ているのは、母の着物を縫い縮めた一枚きりだ。
主人の宗兵衛は、六十を過ぎた無口な男だった。けれど、古着の目利きにかけては、町でいちばんだといわれていた。
丸屋の棚には、さまざまな着物が並んでいる。大店の越後屋から流れてきた、しつけ糸のついたままの上物もあれば、何度も仕立て直されて、色のさめた木綿もある。
「布は、手でさわって覚えろ」
宗兵衛にそう言われて、お糸は毎晩、店じまいのあとで、反物の手ざわりを確かめた。早く一人前になって、役に立ちたかった。
けれど、江戸に来てから、一度も泣いていなかった。泣いたら、村での自分が、すっかり消えてしまう気がしたからだ。
◇
ある夕方、若いおかみさんが、小さな風呂敷包みを抱えて店に来た。
「これを、買っていただけませんか」
包みから出てきたのは、子どもの小さな単衣だった。洗いざらして、色もあせている。
「子どもが熱を出して、薬代が……」
宗兵衛は、着物を手にとって、しばらく黙っていた。それから、相場よりも少し多めの銭を、おかみさんの手に握らせた。
おかみさんが帰ったあと、お糸は、その単衣の背中に、赤い糸の縫い取りがあるのに気づいた。縫い目は、背筋に沿って、まっすぐ下へのびていた。
◇
「背守りだ」
宗兵衛が、ぽつりと言った。
「大人の着物には、背中に縫い目があるだろう。子どもの着物は小さいから、それがない。縫い目のない背中からは、魔が入りこむと言われてな。だから、母親が、こうして縫ってやるんだ」
お糸は、はっとした。
村にいたころ、母が、お糸の着物の背中に、何かを縫いつけていたのを思い出した。くすぐったくて、身をよじって笑った、あの夜のことを。
「旦那さま。わたし、このごろ、左前に着物を着ている夢を見るんです」
宗兵衛は、お糸の着ている、母の着物を、じっと見た。
「その着物も、もとはおっかさんのだろう」
「はい」
「着物ってのはな、死なねえんだ。ほどけば布に戻る。縫い縮めて子が着る。すり切れたら、おしめになる、雑巾になる。最後は焚きつけになって、灰まで畑にまかれる」
宗兵衛は、背守りの単衣を、丁寧にたたんだ。
「形が変わるだけだ。終わるわけじゃねえ」
その夜、お糸は、行灯の明かりの下で、母の着物を脱いで広げてみた。
縫い縮めた背中の縫い目を、指でたどっていく。すると、衿の下の、表からは見えない裏側に、ほんのひと針、赤い糸が縫いこまれていた。
母は、病の床で、この着物を縫い縮めてくれたのだった。もう背守りのいる年でもないのに。
お糸は、二年ぶりに泣いた。声を殺して、長いこと泣いた。
泣いても、母は消えなかった。赤い糸は、変わらずそこにあった。
◇
数日後、お糸は、ひとりで大店へ着物を届けることになった。初めての大事な使いだった。
朝、宗兵衛に言われたとおり、お糸は着付けを一からやり直した。肌着を整え、衿を右に合わせ、腰ひもを結び、帯を締める。ひとつ、またひとつと手を動かすうちに、ふるえていた指が、少しずつ落ち着いていった。
大店の番頭は、包みを開いて、満足そうにうなずいた。
「丸屋さんのお使いは、いつもきちんとしていなさる」
帰り道、お糸は、自分の背筋が、すっと伸びているのに気づいた。
◇
ひと月ほどして、あのおかみさんが、また店に来た。
「子どもが、すっかり元気になりまして。あの着物、まだございますか」
お糸は、奥の棚から、小さな単衣を出した。宗兵衛に頼んで、店には出さずにしまっておいたのだ。
おかみさんは、背守りの縫い目を指でなぞって、目をうるませた。
「これ、わたしが縫ったんです。あの子が生まれたときに」
宗兵衛は、売ったときと同じ値で、単衣を返した。
何度も頭を下げて帰っていくおかみさんの背中を、お糸は、店先で見送った。
「旦那さま。あれじゃ、店の儲けになりません」
「着物の行き先を決めるのも、古着屋の仕事だ」
宗兵衛はそれだけ言って、帳場に戻っていった。
◇
その夜、お糸は、また橋の夢を見た。
美しい着物を着て、橋を渡っていく。胸元を見ると、衿は、やはり左前だった。
けれど、今度は、指が動いた。
お糸は、橋の真ん中で立ち止まり、ひとつ息を吸ってから、衿を右に合わせなおした。腰ひもを締め、帯を整える。
そのとき、背中が、ほんのりと温かくなった。誰かの手が、そっと背中にふれたような気がした。
橋の向こうのかすみが晴れて、にぎやかな江戸の町並みが見えてきた。
お糸は、背筋を伸ばして、歩きだした。
こちらもオススメ
着物の夢が持つ本来の意味についてはこちらの夢占い記事で、好きな人のセーターをめぐるニューマンたちの研究や、決まった手順が緊張をやわらげるブルックスたちの実験、子どもの着物に縫われた背守り、『万葉集』に詠まれた袖、最後のひと切れまで使いきられた着物の一生についてはこちらの夢ことほぎ記事で、それぞれ詳しく解説しています。

