朝、窓を開けた瞬間、文花は思わず息を止めた。
火の匂いがした。
近くで何か燃やしているわけではない。煙も見えないし、空も澄んでいる。
それなのに、風の奥に、乾いた火の匂いだけが薄く混じっていた。
線香とも違う。
焚き火とも少し違う。
もっと遠くて、もっと古い。夏の終わりの夕方にだけ、どこからともなく流れてきて、気づけば服の袖ではなく胸の奥に残っている、あの匂いだった。
髪に触れてみる。寝間着の襟元を寄せる。
けれど、今ここに匂いが染みついているわけではないと、すぐにわかった。匂っているのは、記憶のほうだった。
階下へ下りると、母が台所に立っていた。
味噌汁の湯気が、朝の光の中でゆっくり揺れている。
文花がいつもより長く窓を開けていたことに、母はたぶん気づいていた。
けれど何も言わない。ただ、椀を置く手つきが少しだけ慎重だった。
「今日は、出るの」
「うん。ちょっとだけ」
母は頷いた。
それきりだった。
文花は、母もこの匂いを知っているのではないかと思った。
けれど、その思いつきを言葉にする前に、味噌汁の湯気がすっとほどけて、台所の空気にまぎれていった。訊いてはいけないのではなく、今はまだ、訊けない気がした。
町へ出ると、季節はちゃんと今のままだった。
空の色も、通りの乾き方も、店先の野菜の青さも、どこにも夏の名残なんてない。
けれど、肌だけが違う季節を覚えていた。商店街を抜け、神社の脇の細い道へ入るころには、蝉の声の名残のようなものまで耳の奥に蘇っていた。
実際には鳴いていない。なのに、鳴き終わったあとの空気だけがそこにある。
空き地の脇を通る。
古い柵に白藤の蔓が絡み、もう色を失った葉を細く揺らしていた。
その場所で、文花の足が止まった。
見覚えがある。
そう思うより先に、喉がきゅっと狭くなった。
夕方だった。
たぶん、夏の終わりに近い日。
まだ明るいのに、光だけが少し黄ばんでいて、遠くで子どもの笑い声がしていた。
提灯だったのか、家の軒先の電球だったのか、ぼんやりした灯りが揺れている。土の上を、小さな足音が駆けていく。
その背中を、文花は見ていた。
白いものが揺れた気がする。
髪だったのか、服の端だったのかも、もうわからない。
呼ばなきゃ、と思った。
名前を。
たしかに知っているはずの名前を。
けれど、そのときの喉はうまく動かなかった。
声になる前の空気だけが胸の内側で震えて、結局、何ひとつ届かなかった。
文花はその場で目を閉じた。
責められるような記憶ではない。誰かに咎められたわけでもない。それでも、その呼べなさだけが、長いあいだ小さな棘みたいに身体の奥へ残っていたのだと、ようやくわかった。
火の匂いが、またした。
その匂いを追うみたいに、文花は歩き出した。
どこへ向かうのかを考えるより先に、足はGoldenAnimaのある路地へ向かっていた。
途中、角のところで黒猫がこちらを見ていた。
今日は先に歩かない。
ただ、じっと座ったまま、文花が道を選ぶのを待っているようだった。文花がいつもとは少し違う角度から路地へ入ると、黒猫はようやく立ち上がり、こちらを振り返りもせず、店の方へ静かに歩いていった。
扉を開ける。
鈴が低く鳴る。
店の中には、いつもの珈琲と紙の匂いがあった。
けれど今日は、その奥に、たしかに乾いた火の匂いが混じっていた。
ほんのわずかで、言い張れば思い込みにできる程度の薄さなのに、文花にははっきりわかった。
窓際の男は新聞を広げている。
本を読む女も、同じ席にいた。深い青の表紙に添えられた指先が、今日はページをめくる前のところで止まっている。
Animaがカウンターの奥から文花を見た。
笑うのではなく、目だけで「来たのね」と告げるみたいな視線だった。
文花は席に着く前に、カウンターへ手を置いた。
木の冷たさが掌に伝わる。
「火の匂いがするんです」
声にすると、それは思っていたより小さかった。
「家でも、外でも。ここでも」
Animaは驚かなかった。
砂糖壺の蓋を指先で正しい位置へ戻してから、白いカップをひとつ取り出す。その動作のあいだだけ、店の中の時間がわずかに深くなった気がした。
「匂いとして残る夢は、いちばん深く触れた夢なの」
文花は息を止めた。
Animaはカップを置き、湯気が細く立つのを見てから続ける。
「夏の終わりの匂いは、ふしぎね。出来事より先に、人を運んでくることがあるの」
その言葉は、答えではなかった。
でも、文花の中のどこかに、静かにおさまる場所があった。
「……思い出せそうで、思い出せないんです」
「思い出さなくていいわ」
Animaはそう言った。
声は低く、けれど遠くなかった。
「思い出すのは、たぶん匂いのほう。あなたはただ、それを受け取ってくれればいいの」
許された、とは違った。
何かが解決したわけでもない。
けれど、胸の奥で固く結ばれていたものが、ほんの少しだけ緩むのを感じた。
呼べなかったことは消えない。
あのときの喉の震えも、たぶん消えない。けれど、それを責めるためだけに匂いが戻ってきたのではないのかもしれないと、はじめて思えた。
文花はカップを包むように持った。
湯気の向こうに、本を読む女の横顔が見える。今日は本を開いたまま、けれど視線だけは紙の上に落ちていないように見えた。
会計を済ませ、文花が扉へ向かう。
その途中で、ふと彼女のほうを見た。
今度は、向こうが先にこちらを見ていた。
ほんの一瞬だった。
それでも、目が合ったとき、文花の喉の奥に長く残っていた硬さが、糸をほどくみたいに少しだけ解けた。何も言わない。呼ばない。まだ名前は口にできない。
けれど、その沈黙は、第8話のときのような遠さではなかった。
文花は扉に手をかけた。
外へ出ると、夕方の空気がやわらかく沈みはじめていた。路地の先で、黒猫がいつものように待っている。けれど今日は振り返らない。そのまま、静かに先へ歩いていく。
火の匂いは、まだ風の中に薄くあった。
あの夏、わたしは、たぶん、見ていた。
ちゃんと全部じゃなくても。
何が起きたのかを説明できなくても。
あの夕方の光と、呼べなかった喉と、白く揺れた何かを、たしかに見ていたのだ。
そう思ったとき、怖さより先に、ひどく小さな寂しさが胸にひらいた。
店の灯りは背中の向こうに遠ざかっていく。
けれど、もう見えなくなっても、そこにいる人たちが消えるわけではないことを、文花は少しずつ知りはじめていた。
この回で、“触れる夢”が言葉として立ち上がることと、文花の中に残っていた夏の喉の記憶が、きれいにつながったと思うよ。


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