
深い霧の底を、ひとりで歩いていた。
足もとの感触だけが頼りで、視界は乳白色に閉ざされている。
どこか遠くで、ひくく低い息づかいのようなものが響いていた。獣のものにしては大きすぎる、山そのものが呼吸しているような音。
私は、その音に導かれるようにゆっくりと霧の奥へ進んでいった。
霧が薄れた先に、それはいた。
岩肌に巻きつくように身を横たえた、途方もなく大きな影。鱗は炎のような赤にも、深い森のような翠にも見え、光の当たり方ひとつで、まったく違う生き物のように色を変えた。背に沿って並ぶ棘は、月を隠すほどの高さまで続いている。
目が合った瞬間、喉の奥がすくんだ。逃げなければ。あるいは、何か武器になるものを探さなければ。子どものころに読んだ絵本の中で、勇者が剣を掲げてドラゴンに立ち向かう場面が、なぜか頭をよぎった。
けれど、足は動かなかった。
龍は動かない。ただ、大きな瞳でこちらをじっと見ている。威嚇するでもなく、襲いかかるでもなく、まるで何かを試すように、あるいは何かを待つように。
その瞳の奥には、怒りではなく、もっと静かな色――長い時間、何かを守り続けてきた者だけが持つ、深い落ち着きのようなものが宿っていた。
「怖がらせるつもりはない」
声は聞こえなかったはずなのに、そう告げられた気がした。恐る恐る一歩近づくと、龍の体の下、岩の隙間に、小さな光が見えた。掌に収まるほどの、淡い金色の玉。
「これを、ずっと守っていたの」
自分の声が、霧の中に溶けていく。
近づいてよく見ると、その玉の表面には、自分の顔がうっすらと映り込んでいた。ずいぶん久しく見ていなかった、迷いのない顔。まだ何も諦めていなかった頃の、自分だった。
龍が、ゆっくりと首をもたげた。もう逃げる必要はない、と伝えるように。
思えば、この龍を最初に見たとき、なぜあれほど怖かったのだろう。大きいから。強いから。自分にはとても敵わないと、姿を見た瞬間に決めてかかっていたから。
でも、目の前にいるのは、敵ではなかった。ずっと昔、自分自身が霧の奥に置き去りにしてきた何かを、誰にも奪われないよう、ただ静かに守り続けていた番人だったのだ。
手を伸ばすと、玉はひとりでに浮き上がり、光の粒になって、私の胸の中へゆっくりと吸い込まれていった。
温かかった。怖いはずの龍の吐く息さえ、その瞬間はどこか懐かしく感じられた。
龍は満足そうに一度だけ瞬きをすると、霧の奥へと身を沈め、やがてその輪郭ごと、静かに見えなくなった。
目が覚めたとき、部屋はまだ薄暗かった。それでも、胸の奥に小さな熾火のようなものが、たしかに灯っているのがわかった。
大きくて、怖くて、とても敵わないと思っていたものは、本当はずっと、自分の味方だったのかもしれない。
倒すべき相手だと思い込んでいた何かの正体は、実はいちばん近くで、自分を守ってくれていたものだったのかもしれない。
カーテンの隙間から、朝の光が少しずつにじんできた。私は布団の中で小さく伸びをして、今日はずっと後回しにしていたことに、少しだけ手をつけてみようと思った。
大きな力は、案外、ずっと前から味方だったのかもしれない。そう思うと、今日という日を、恐れずに歩いていける気がした。

こちらは、龍・ドラゴンの夢を見た人が、その夢の余韻をもう一度味わえるように短編としてご用意しました。
倒すべきものか、守ってくれるものか。それを決めるのは、いつだってあなた自身なのよ。
この物語の元になった夢の意味や由来をもっと詳しく知りたい方は、こちらもあわせてどうぞ。


コメント