その夜、文花はうまく眠れなかった。
灯りを消した部屋のなかで、昼間よりもむしろはっきりと、あの声だけが残っていた。
――お帰りなさい。
たったひとことなのに、胸の奥へ薄い栞みたいに差しこまれたまま、静かに居場所をつくっている。
枕元のノートへ手をのばす。
古いクリーム色の表紙は、夜の気配を含むと白くは見えず、くすんだ藤色を吸って沈んでいた。指の腹でなぞると、擦れかけた白藤の押し模様が、光のない場所でかえってよくわかる。角は丸く、何度も誰かの手にひらかれ、閉じられてきた気配だけが残っていた。
ページをめくる音が、小さな部屋のなかでは思いのほか深く響く。
ひらがなの多い幼い字。
学校のことや給食のこと、好きだったお菓子のこと。
そんなたわいない記憶のあいだへ、夢の話だけが、あとから滲むように混じっている。
また、さかさのゆめをみた。
ゆめでさわったてが、つめたかった。
あの子は、きょうも、はしのところにいた。
そこまで読んで、指が止まった。
“あの子”――
その書き方だけが、子どもの字なのに妙によそよそしい。友だちの名前を書くときの丸みとも、家のことを書くときの無造作さとも違う。呼んでしまう一歩手前で立ち止まったような、ためらいの跡だけがそこに残っていた。
ふいに、襖の向こうで小さく寝返りの音がした。
母の部屋だ。
文花はノートを閉じ、そのまましばらく膝の上に置いた。
たしかめたいことがないわけではない。むしろ、訊きたいことはいくつもある。けれど今夜は、母の口から先に答えを受け取ってしまうのが、どこか違う気がした。まだ誰にも言葉にされていないものを、自分の足でたどらなければならない夜がある。そんなことを思うようになるとは、少し前まで考えてもいなかった。
静かに上着を羽織る。
ノートを鞄へ入れる。金具が触れて音を立てないよう、持ち上げる指先だけ慎重になる。
襖の前で足を止めると、母の寝息は思っていたより浅かった。眠っているというより、目を閉じたまま、何かをやりすごしている人の静けさに近い。
声はかけなかった。
玄関の戸を引くと、雨上がりの匂いがすぐ頬に触れた。
昼の湿り気とは少し違う。土も石も、ひと晩ぶんの水を含んだあとで、ようやく熱を手放したみたいな匂いだった。
夢見町はもう、人の時間を折りたたみはじめていた。
商店街の明かりはまばらで、庇の下に残った雨粒が、街灯の鈍い橙を細く返している。閉じた店の硝子には町の灯だけが映り、人の影はどこにもなかった。歩くたび、自分の靴音だけが少し遅れて戻ってくる。
知っている道のはずなのに、今夜は覚えているというより、足のほうが先に決めていくようだった。
曲がり角の手前で、黒猫がいた。
暗がりのなかで、目だけが先に見えた。
金色の、小さなふたつの灯。
文花が立ち止まっても、猫は逃げない。しばらくこちらを見て、それから何も告げないまま向きを変え、路地の奥へ歩き出した。
ついてきて、とも。
こないで、とも。
そんなことはひとつも言わない足取りだった。
少しだけ迷ってから、そのあとを追う。
細い路地へ入る。
石畳の隙間に溜まった水が、かすかに夜空を映していた。頭上には、季節を過ぎたはずの藤棚が、黒い枝を絡ませたまま低くのびている。花はもう終わったものと思っていたのに、ひと房だけ、名残みたいな白さが暗がりに浮いていた。風がふれると、その房がかすかに揺れる。雨の匂いの奥で、ほとんど気のせいみたいに、花の香りが混じった。
その瞬間、喉の奥が細く締まる。
思い出しかけている。
そうわかるのに、まだ形にはならない。
夏の夜。橋。水の音。呼べなかった声。
言葉になる手前でほどけた断片ばかりが、皮膚の内側をゆっくり流れていった。
黒猫は、いつのまにか少し先で立ち止まっていた。
そこから先は、文花にも見覚えのある道だった。
水鏡橋へ続く道。
猫は一度だけこちらを振り向き、次の瞬間には闇へ溶けるように姿を消した。あとに残ったのは、さっきまでそこにあった目の高さの記憶だけだった。
橋の手前まで来て、ようやく足が止まる。
欄干は雨を含み、夜気よりもわずかに深い冷たさをまとっていた。
川の音は近いはずなのに、橋の上だけ少し遠くへ退いているように聞こえる。胸の奥では、名前になりきれないものが、何度も小さく息をしていた。
鞄の上からノートに触れる。
紙の角は静かだ。
けれど、もう隠れている感じはしない。
待っているのだと、文花は思った。
開かれるのをではなく、呼ばれるのを。
ゆっくり息を吸い、橋の上へ足を踏み出す。
中央まで行けば、なにかが見える気がした。
あるいは、なにも見えないのかもしれない。
それでも今夜は、見えなかったことにしたまま帰るわけにはいかなかった。
橋の半ばで、欄干に手を置く。
湿った冷たさが、掌から静かに移ってくる。
そのときだった。
黒い水の上に、白いものが細くとどまっているのが見えた。
最初は、空の名残かと思った。
けれど今夜の空に、そんな明るさはない。
思わず息をひそめる。
水面の白さは流されず、そこにだけ残っていた。
そして遅れて、欄干の向こうにも、同じ白があることに気づく。
袖だった。
橋の少し先。
向こう側の欄干のそばに、白い袖の先だけが見えていた。
風が吹く。布が、ほんの少し遅れて揺れる。
それから髪の影、肩の線。
水面のほうが先にその姿を受け取り、現実の輪郭はあとから静かに追いついてくる。
そこに、誰かがいた。
けれど、すぐには名前が浮かばない。
人の形より先に、懐かしさのほうが胸へ触れてきたからだ。
呼べば届く距離。
なのに、あの夏の夜も、たぶん同じところで立ち止まった。
呼んでしまえば何かが決まってしまう気がして、声を持ったまま、黙るしかなかった。
唇がひらく。
けれど最初の息は、まだ音にならない。
その瞬間、胸の奥で、ずっと小さく折りたたまれていた夜がひらきかけた。
夏の終わりの湿った空気。
橋の向こうにいた白い気配。
喉まで上がってきていたのに、とうとう呼ばなかった、あの一度きりのためらい。
忘れていたわけじゃない。
忘れたことにしていた、と言い切るにも少し違う。
もっと曖昧で、もっと臆病な形のまま、文花はその名前を胸の底へ置いてきたのだ。
向こう側の白い影は、まだ振り向かない。
急かしもせず、遠ざかりもせず、ただそこにいる。
呼ばれるのを、ずっと前から知っていたみたいに。
文花は欄干を握ったまま、もう一度だけ息を吸った。
夜の空気が、狭くなっていた胸の奥へ、少しずつ満ちていく。
それから今度は、ちゃんと声にした。
「……澪ちゃん」
小さな声だった。
けれどそのひとことは、今までどの夢のなかで聞いた声よりもたしかに、橋の上へ置かれた。
水面がかすかに揺れる。
白い影は、すぐには振り向かなかった。
ひと呼吸ぶんだけ遅れて、肩の線がわずかに動く。
それから、横顔とも言い切れないほど淡い輪郭が、夜のほうを向き直った。
見えた、と思うより先に、胸の奥で何かがほどけた。
それは子どものようにも見えたし、そう決めてしまうには静かすぎた。
近づけば消えてしまいそうなのに、いままでどんな記憶よりもたしかに、そこにいた。
白い袖の先が、風に煽られて少し遅れて揺れる。
その動きだけで、文花にはもう十分だった。
火の匂いではない。
もっと湿って、ひそやかで、夜に溶ける花の匂いがした。
白藤の香りだった。
その匂いにふれた瞬間、橋の向こうにいるのが澪だけではないような気がした。
もっと幼い、自分の背丈に近い気配が、その少し手前で、ゆっくりこちらを振り向く。
呼べなかったあの夜の自分が、ようやく自分の声を聞いたのかもしれないと、そんなふうに思った。
文花はもう一度、名前を呼ぼうとして、けれど今度は呼ばなかった。
一度きちんと届いたのなら、それでよかった。
呼び続けることより、たしかに声にできたことのほうが、今夜は大切だった。
橋の向こうで、白い袖がほんのわずかに動く。
それが返事だったのか、風のせいだったのかはわからない。
ただ、そのあとで、ごくかすかに、誰かの声のようなものが夜気にまじった。
――きこえた。
それは耳で聞いたというより、呼んだ名前の余韻が、自分の内側でそう結んだだけかもしれなかった。
それでも文花は、もう確かめようとは思わなかった。
確かめなくても、そこにいたからだ。
しばらくそのまま橋の上に立ち尽くし、それから文花は、欄干から手を離した。
掌にはまだ冷たさが残っている。けれどさっきまでのような狭さは、喉の奥から少しだけ退いていた。
来た道を戻る。
夜の町は相変わらず静かだったが、さっきまでと同じ静けさではなかった。
閉じた店の硝子も、雨を含んだ石畳も、もう何も言わないふりをしているようには見えない。
黙ったまま、それでもたしかに、こちらを見送っている気配があった。
路地の角を曲がると、GoldenAnimaの灯が見えた。
もう遅い時間のはずなのに、店の明かりは落ちていない。
扉は閉まっていたが、内側にはまだぬくもりが残っているとわかる灯りだった。
文花が近づくと、鈴が鳴るより少し早く、扉がひらいた。
Animaが立っていた。
店の灯を背にしているのに、不思議と影が濃くならない。
長い髪が肩のあたりで静かに揺れ、白い湯気をひとつ、手もとのカップの上に留めていた。
文花の顔を見て、Animaはすぐには何も言わなかった。
ただ一度だけ、まっすぐに見た。
それから、ほんの少し口元をゆるめる。
「声にできた顔をしている」
そのひとことで、橋の上に置いてきたはずの夜が、また静かに胸へ戻ってきた。
文花は何か答えようとして、けれどうまく言葉にならず、小さく息をついただけだった。
Animaはそれ以上たずねない。
扉を少し広く開け、入って、というふうに横へ身をずらす。
店のなかは、珈琲と紙の匂いに、今夜はどこか花の気配が混じっていた。
窓際の席には誰もいない。
けれど、空白ではなかった。
さっきまで誰かがそこにいて、いまも気配だけを残しているような静けさだった。
席につくと、すでに温められていたらしいカップがそっと置かれる。
湯気がまっすぐのぼり、それを見ているうちに、ようやく自分がひどく冷えていたことに気づいた。
「……呼べたの」
声は思ったよりかすれていた。
Animaは向かいには座らず、カウンターの内側に立ったまま、白い指先でカップの縁を整えるように触れた。
「ええ」
短い返事だった。
けれど、それで十分だった。
文花は湯気に指をかざしながら、しばらく黙っていた。
橋の上で見た白さも、袖の動きも、あのかすかな声も、言葉にしてしまうと少しずつ違うものになる気がした。
だから、訊いたのは別のことだった。
「名前を呼ぶのって……遅すぎたり、するのかな」
Animaはすぐには答えなかった。
棚に並んだ本の背へ一度だけ視線を流し、それから静かにこちらを見る。
「呼ばれないままだと、息の仕方を忘れてしまうものがあるの」
店のなかはしんとしていた。
その言葉だけが、灯りの下で沈まずに残る。
「人も、記憶も、町も。たぶん、そういうものは思っているより多いわ」
文花は顔を上げた。
Animaの声音は低くも高くもなく、ただ、ずっと昔からそこに置かれていた言葉を、今夜ようやく手渡すみたいだった。
「……わたし、自分のために呼んだのかもしれない」
Animaは否定しなかった。
肯定もしない。
ただ、カップの脇に置かれた小さな匙の位置を整え、その指先を止めたまま言った。
「それでいいのよ」
その短さが、かえって胸にしみた。
文花はカップに口をつける。
熱は強すぎず、喉の奥をまっすぐ通っていく。
さっきまでそこにあった狭さが、完全ではないにせよ、たしかにほどけはじめているのがわかった。
しばらくして店を出ると、夜はもう少しだけ薄くなっていた。
雨の気配は去り、東の空の低いところが、まだ色になる前の明るさを持ちはじめている。
路地の先で、黒猫が一度だけ振り向いた。金色の目が小さく光って、それきり闇へほどけるように消える。
家の前まで戻って、文花は鞄のなかのノートにそっと触れた。
紙の角は静かだった。
けれどもう、待っている感じはしなかった。
名前を呼ばれる前の沈黙ではなく、呼ばれたあとの余白に変わっていた。
玄関に手をかける。
空はまだ朝には遠い。
それでも文花は、夜の終わりがもうどこかで始まっているのを感じていた。
明日、母と話そう。
そう思ったとき、胸の奥にあったものは、痛みではなく、ようやく自分の場所へ戻っていく気配に変わっていた。


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