
祖母の部屋の隅に、古い姿見があった。
金の縁飾りは所々くすみ、ガラスの端には細かな傷が走っている。子どものころから、なんとなく近づきたくない鏡だった。
なのに夢の中の私は、吸い寄せられるように、その前に立っていた。
最近の私は、鏡を見るとき、いつも同じ顔を確認していた。仕事用の、ちゃんとしている顔。誰にも心配をかけない、困らせない顔。
朝、洗面所の鏡の前でその顔を作ってから、一日を始めるのが習慣になっていた。いつからそうなったのか、もう思い出せないくらいに。
映っているのは、たしかに自分の顔だった。
けれど、どこかがずれている。私が瞬きをした一拍あとに、鏡の中の私がまばたきをする。私が微笑もうとする前に、鏡の中の私の口元が、先にかすかに動く。
まるで、鏡の中の私のほうが、本物であるかのように。
怖くなって、目をそらそうとした。でも、視線は勝手に引き戻される。
鏡の中の顔は、次第にいつもの私が人前で作る表情を失っていった。愛想笑いでも、澄ました顔でもない。疲れた目、力の抜けた口元、誰にも見せたことのない、ひどく素のままの顔。
逃げようと一歩下がると、鏡の中の私も同じだけ下がった。逃げ場はどこにもないのだと、そのとき初めて気づいた。
部屋はしんと静まりかえっていて、聞こえるのは自分の呼吸だけ。それでも、恐怖よりも先に、奇妙な懐かしさのようなものが胸の奥からこみ上げてきた。
「それ、誰なの」
声に出したつもりはなかったのに、部屋に小さく響いた。
鏡の中の私が、初めてまっすぐにこちらを見た。責めるでも、哀れむでもなく、ただ静かに。
その目を見た瞬間、答えは向こうからではなく、自分の内側から、ふっと浮かび上がってきた。
ずっと、隠してきた顔だ。
うまくやれていないときも、平気なふりをしてきた。傷ついても、笑ってごまかしてきた。鏡の中の私は、そうやって私が見せないようにしてきた分だけ、ここに積み重なっていたのだ。
怖いものでも、恥ずかしいものでもなかった。ただ、長いあいだ、順番を待たされていただけの、私自身だった。
いつも先に鏡の中の私が動くのは、我慢比べに負けたからじゃない。むしろ逆で、これ以上黙っていられないほど、伝えたいことがあったからなのかもしれない。
そっと手を伸ばして、ガラスに触れる。冷たさの奥に、かすかな体温のようなものが返ってきた気がした。
鏡の中の私の口元が、今度は先ではなく、私と同じ拍で、少しだけゆるむ。
目が覚めたとき、部屋の空気はいつもより静かだった。
洗面所の鏡をのぞくと、映っているのは、いつもとなにも変わらない顔。けれど、その顔を見ても、今日はなぜか目をそらしたいと思わなかった。
いつもなら真っ先に整える口元も、今朝はそのままにしておいた。少し疲れて見える自分の顔を、なんだか悪くないと思えたから。
取り繕う前の顔を、少しだけ自分に許してあげてもいいのかもしれない。
そう思えた朝だった。

鏡の中のあなたが、いつもより少しだけ先に動く夜があったら。それは脅かしにきたんじゃなくて、ずっと出番を待っていただけなのよ。
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