【連載】夢見町の案内人 ― 白藤の残夢 ― 第七話 帰っていないのは

この記事は約7分で読めます。

その夜、文花はほとんど眠れなかった。

夢を見た気はする。けれど、目が覚めたときには、その中身はきれいに流れ去っていた。ただ、家の近くの細い路地を、誰かのあとから歩いていたような感覚だけが残っている。橋ではなかった。白い影も、声も、夢の中にはなかったはずなのに、胸の奥にはまだ、あの未完成の言葉が貼りついていた。

かえっていないのは

机の上に伏せたノートが、朝の光の中で、薄い影を落としていた。開こうとして、指先を引く。開かなければ何も増えない。けれど、閉じたままにしても、欠けた一行は消えない。

昼前、文花は買い物袋を手に家を出た。
商店街へ向かうつもりだったのに、気づけば昨日とは別の細い道へ入っている。
古い住宅が並ぶ坂道で、子どものころにはたしかによく通ったはずの道だった。なのに、どちらから通っていたのかが思い出せない。
橋へ向かう途中だったのか。橋から帰る途中だったのか。ただ、その坂を下る足は妙に迷いがなかった。

同じ道を、ずっと反対の向きから歩いているような気がした。

角を曲がったところで、真帆に会った。
紙袋を腕に提げたまま、彼女は「あっ」と声を上げる。

「文花ちゃん、また出てたんだ」

「うん。ちょっと買い物」

「最近よく歩いてるね。昔は、橋のほう行きたがると、いつも止められてたのに」

文花は足を止めた。

「……わたしが?」

「うん。覚えてない? 水鏡橋のほう、行きたがって困るって、うちでもよく話してたよ。わたしは小さかったからあんまりわかってなかったけど」

真帆は本当に、思い出話をするみたいな軽さで言った。
その軽さのままの話だからこそ、文花の胸に沈んだ。

「止められてたって、誰に」

「おばさんとか、お母さんとか。あと、うちのおばあちゃんも。文花ちゃん、いなくなりそうで目が離せないって」

真帆はそこで笑ったが、文花はうまく笑い返せなかった。
いなくなりそう。そんなふうに言われていた記憶は、どこにもない。

「文花ちゃん?」

「……ううん。覚えてなくて」

「まあ、小さいころだしね」

真帆はそれ以上気にした様子もなく手を振って去っていった。
あとに残ったのは、明るい声と、取り残されたような違和感だけだった。

橋へ続く道の途中には、小さな空き地がある。
昔は誰かの家があったのかもしれないが、いまは低い石垣と、半ば朽ちた祠のようなものが残るばかりだった。石の脇には、季節外れの蔓が絡みついている。
葉は少なく、白藤だったのかどうかもわからない。ただ、その淡く乾いた色を見た瞬間、文花の足が止まった。

来たことがある。
そう思うのに、いつのことかがつかめない。

風が吹く。蔓がかすかに揺れる。
その下にしゃがみこむ小さな自分の姿が、一瞬だけ脳裏をかすめた。膝を抱えた子ども。
だれかの気配を待っているようで、けれど顔は見えない。次の瞬間には、もう何も残っていなかった。

文花は逃げるように家へ戻った。

台所では、母が夕飯の下ごしらえをしていた。
包丁の音はいつもどおりだったが、まな板の上に置かれた手つきが、妙に慎重に見えた。文花が「ただいま」と言うと、母は「おかえり」と返した。
その声は変わらないのに、なぜだか目だけがこちらをまっすぐ見なかった。

橋のことを訊こうとして、やめた。
母がなにも言わずにいるのは、隠しているからだけではない気がしたからだ。
言わなかった時間の長さが、そのまま母の中にも積もっているのかもしれない。
そう思うと、問いただすことが少し残酷に思えた。

自室へ戻り、文花は机の前に座った。
ノートを開く。ぎざぎざの破れ目を指でなぞり、それから、刃物できれいに切られたほうの跡もたどる。

同じ欠落なのに、手つきがまるで違う。

ぎざぎざのほうは荒い。ためらいと焦りが一緒に走っているみたいだった。
きれいな切り口のほうは、迷いがない。見えない線に沿って、静かに切り離したみたいだった。

文花は、自分の手を見た。
子どものころの自分が、このノートを握りしめて、勢いのままページを破ったとしたら。泣きながらでも、怒りながらでもなく、ただ見たくなくて。そんなふうにして、紙を裂いたのだとしたら。

胸の奥で、なにかが小さく軋んだ。

守られていたのかもしれない。
でも、自分でも置いてきたのかもしれない。

その境目が、急に曖昧になる。

夕方、文花はノートを鞄に入れて、GoldenAnimaへ向かった。

店の扉を開けると、鈴が低く鳴る。
窓際の男は今日も同じ席で新聞を前にしていた。本を読む女も、濃い色の装丁の本を膝の上に置き、変わらない姿勢でページをめくっている。店の中だけ、時間の進み方が少し均されているようだった。

「いらっしゃい」

Animaはカウンターの奥にいた。
白いクロスでカップのふちを拭きながら、顔を上げる。その視線が、文花の鞄に一瞬だけ触れた。

文花は席についたが、今日はノートを出さなかった。
出さなくても、あることはたぶん伝わっている。そんな気がした。

珈琲が置かれる。
湯気が薄く立ちのぼり、カウンターのあいだに小さな幕のようにかかった。

「眠れてない顔」

Animaはそう言って、砂糖壺の位置を少しだけ整えた。

「……そんなにわかりますか」

「ええ。今日は考えすぎた人の顔をしてる」

文花は苦く笑いかけて、やめた。
カップのふちに指を添える。

「昨日のノートのこと、まだ考えてました」

「そうでしょうね」

「破られたページが二種類あったんです。裂いたみたいなのと、きれいに切ったみたいなのと」

Animaは黙って聞いていた。
それだけなのに、途中で言葉をやめなくていいと思えた。

「……片方は、わたしかもしれないって思ったんです」

そこまで言ったとき、はじめて自分の声が少し掠れているのに気づいた。

「子どものころのわたしが、自分で破ったのかもしれないって。見たくなくて。忘れたくて。もしそうなら、わたしは守られてただけじゃなくて、自分でも何かを置いてきたんじゃないかって」

Animaはすぐには返事をしなかった。
カップの持ち手にふれた指を、一度だけ離す。それから、文花のほうを見た。

「あなたが探しているのは、抜かれた紙だけ?」

文花は息を止めた。

Animaの声は静かだった。
けれど、こちらの考えを少しだけずらすみたいに、まっすぐ入ってくる。

「それとも、抜かなかった紙のほう?」

答えられなかった。

抜かれたところばかり見ていた。
残されたページは、そこにあるのに。読まれるのを待っていたのかもしれないのに。

文花が黙ったままでいると、Animaは視線を落とし、ほんの少しだけ笑った。それは励ますようでも、突き放すようでもなく、ただ「急がなくていい」と言う前の表情に見えた。

「帰るって、ふしぎな言葉ね」

彼女は砂糖壺の蓋を元の位置へ戻しながら言った。

「行き先のほうが、待っていてくれているかどうかで、意味が変わるの」

「……帰っていないのは、誰なんでしょう」

その問いは、思ったより小さな声になった。

Animaは少しだけ考えるように黙った。
そして、答えではない形の言葉を置く。

「人はね、ぜんぶ持って帰れるわけじゃないの。大事なものほど、置いていく場所が決まっていることがあるから」

「Animaさんも?」

そう訊いたのは、ほとんど衝動だった。

Animaはその問いに、すぐには笑わなかった。
カウンターの奥のガラス棚に目を向け、それからゆっくり文花のほうを見る。

「わたしも、この町に長くいるわ」

そう言ってから、ほんのわずかに言葉を継ぎ足した。

「でも、“いる”って言える時間は、たぶん、そんなに長くないのかもしれない」

意味はわからなかった。
けれど、その言い方だけで十分だった。Animaもまた、ひとつの場所にまっすぐ立っている人ではないのかもしれない、と感じるには。

それ以上は訊かなかった。
訊けば、また彼女はきれいに言葉を引くだろう。今日はそれがわかっていた。

店を出るころには、外はすっかり夕暮れだった。
文花が扉に手をかける。鈴が鳴る。その背中に、Animaの声が落ちた。

「次にいらっしゃるとき」

文花は振り向く。

Animaはいつもの位置に立ったまま、静かな目でこちらを見ていた。

「あの席の方を、よく見てあげて」

どの席、とは言わなかった。

窓際の男の席かもしれない。
本を読む女の席かもしれない。
けれど、その言葉が置かれた角度は、どちらにも届く曖昧さを残していた。

文花は何か返そうとして、やめた。
確かめるには、もう遅すぎる気がしたからだ。

店の外へ出る。
細い路地には、もう夜の気配が降りてきている。
歩きながら、文花は一度だけ振り返った。
ガラス越しの灯りの中で、二人の常連客は相変わらず動かなかった。
ただ、本を読む女の白い指先だけが、ページの端にそっとかかっているのが見えた。

その姿を見た瞬間、胸の奥で何かがわずかに鳴った。

見たことがある、ではない。
ずっと、そこにいたのかもしれない。
そんなふうに思ってしまう感覚だった。

路地の先で、黒猫が一度だけ立ち止まった。
金色の目が、こちらを見る。呼ぶでもなく、待つでもなく。ただ、知っているものを見る目で。

次の角を曲がるとき、文花はふいに、自分がどこへ帰ろうとしているのか、少しだけわからなくなった。


【創作】短編夢物語・目次

コメント

タイトルとURLをコピーしました