その夜、文花はほとんど眠れなかった。
夢を見た気はする。けれど、目が覚めたときには、その中身はきれいに流れ去っていた。ただ、家の近くの細い路地を、誰かのあとから歩いていたような感覚だけが残っている。橋ではなかった。白い影も、声も、夢の中にはなかったはずなのに、胸の奥にはまだ、あの未完成の言葉が貼りついていた。
かえっていないのは
机の上に伏せたノートが、朝の光の中で、薄い影を落としていた。開こうとして、指先を引く。開かなければ何も増えない。けれど、閉じたままにしても、欠けた一行は消えない。
昼前、文花は買い物袋を手に家を出た。
商店街へ向かうつもりだったのに、気づけば昨日とは別の細い道へ入っている。
古い住宅が並ぶ坂道で、子どものころにはたしかによく通ったはずの道だった。なのに、どちらから通っていたのかが思い出せない。
橋へ向かう途中だったのか。橋から帰る途中だったのか。ただ、その坂を下る足は妙に迷いがなかった。
同じ道を、ずっと反対の向きから歩いているような気がした。
角を曲がったところで、真帆に会った。
紙袋を腕に提げたまま、彼女は「あっ」と声を上げる。
「文花ちゃん、また出てたんだ」
「うん。ちょっと買い物」
「最近よく歩いてるね。昔は、橋のほう行きたがると、いつも止められてたのに」
文花は足を止めた。
「……わたしが?」
「うん。覚えてない? 水鏡橋のほう、行きたがって困るって、うちでもよく話してたよ。わたしは小さかったからあんまりわかってなかったけど」
真帆は本当に、思い出話をするみたいな軽さで言った。
その軽さのままの話だからこそ、文花の胸に沈んだ。
「止められてたって、誰に」
「おばさんとか、お母さんとか。あと、うちのおばあちゃんも。文花ちゃん、いなくなりそうで目が離せないって」
真帆はそこで笑ったが、文花はうまく笑い返せなかった。
いなくなりそう。そんなふうに言われていた記憶は、どこにもない。
「文花ちゃん?」
「……ううん。覚えてなくて」
「まあ、小さいころだしね」
真帆はそれ以上気にした様子もなく手を振って去っていった。
あとに残ったのは、明るい声と、取り残されたような違和感だけだった。
橋へ続く道の途中には、小さな空き地がある。
昔は誰かの家があったのかもしれないが、いまは低い石垣と、半ば朽ちた祠のようなものが残るばかりだった。石の脇には、季節外れの蔓が絡みついている。
葉は少なく、白藤だったのかどうかもわからない。ただ、その淡く乾いた色を見た瞬間、文花の足が止まった。
来たことがある。
そう思うのに、いつのことかがつかめない。
風が吹く。蔓がかすかに揺れる。
その下にしゃがみこむ小さな自分の姿が、一瞬だけ脳裏をかすめた。膝を抱えた子ども。
だれかの気配を待っているようで、けれど顔は見えない。次の瞬間には、もう何も残っていなかった。
文花は逃げるように家へ戻った。
台所では、母が夕飯の下ごしらえをしていた。
包丁の音はいつもどおりだったが、まな板の上に置かれた手つきが、妙に慎重に見えた。文花が「ただいま」と言うと、母は「おかえり」と返した。
その声は変わらないのに、なぜだか目だけがこちらをまっすぐ見なかった。
橋のことを訊こうとして、やめた。
母がなにも言わずにいるのは、隠しているからだけではない気がしたからだ。
言わなかった時間の長さが、そのまま母の中にも積もっているのかもしれない。
そう思うと、問いただすことが少し残酷に思えた。
自室へ戻り、文花は机の前に座った。
ノートを開く。ぎざぎざの破れ目を指でなぞり、それから、刃物できれいに切られたほうの跡もたどる。
同じ欠落なのに、手つきがまるで違う。
ぎざぎざのほうは荒い。ためらいと焦りが一緒に走っているみたいだった。
きれいな切り口のほうは、迷いがない。見えない線に沿って、静かに切り離したみたいだった。
文花は、自分の手を見た。
子どものころの自分が、このノートを握りしめて、勢いのままページを破ったとしたら。泣きながらでも、怒りながらでもなく、ただ見たくなくて。そんなふうにして、紙を裂いたのだとしたら。
胸の奥で、なにかが小さく軋んだ。
守られていたのかもしれない。
でも、自分でも置いてきたのかもしれない。
その境目が、急に曖昧になる。
夕方、文花はノートを鞄に入れて、GoldenAnimaへ向かった。
店の扉を開けると、鈴が低く鳴る。
窓際の男は今日も同じ席で新聞を前にしていた。本を読む女も、濃い色の装丁の本を膝の上に置き、変わらない姿勢でページをめくっている。店の中だけ、時間の進み方が少し均されているようだった。
「いらっしゃい」
Animaはカウンターの奥にいた。
白いクロスでカップのふちを拭きながら、顔を上げる。その視線が、文花の鞄に一瞬だけ触れた。
文花は席についたが、今日はノートを出さなかった。
出さなくても、あることはたぶん伝わっている。そんな気がした。
珈琲が置かれる。
湯気が薄く立ちのぼり、カウンターのあいだに小さな幕のようにかかった。
「眠れてない顔」
Animaはそう言って、砂糖壺の位置を少しだけ整えた。
「……そんなにわかりますか」
「ええ。今日は考えすぎた人の顔をしてる」
文花は苦く笑いかけて、やめた。
カップのふちに指を添える。
「昨日のノートのこと、まだ考えてました」
「そうでしょうね」
「破られたページが二種類あったんです。裂いたみたいなのと、きれいに切ったみたいなのと」
Animaは黙って聞いていた。
それだけなのに、途中で言葉をやめなくていいと思えた。
「……片方は、わたしかもしれないって思ったんです」
そこまで言ったとき、はじめて自分の声が少し掠れているのに気づいた。
「子どものころのわたしが、自分で破ったのかもしれないって。見たくなくて。忘れたくて。もしそうなら、わたしは守られてただけじゃなくて、自分でも何かを置いてきたんじゃないかって」
Animaはすぐには返事をしなかった。
カップの持ち手にふれた指を、一度だけ離す。それから、文花のほうを見た。
「あなたが探しているのは、抜かれた紙だけ?」
文花は息を止めた。
Animaの声は静かだった。
けれど、こちらの考えを少しだけずらすみたいに、まっすぐ入ってくる。
「それとも、抜かなかった紙のほう?」
答えられなかった。
抜かれたところばかり見ていた。
残されたページは、そこにあるのに。読まれるのを待っていたのかもしれないのに。
文花が黙ったままでいると、Animaは視線を落とし、ほんの少しだけ笑った。それは励ますようでも、突き放すようでもなく、ただ「急がなくていい」と言う前の表情に見えた。
「帰るって、ふしぎな言葉ね」
彼女は砂糖壺の蓋を元の位置へ戻しながら言った。
「行き先のほうが、待っていてくれているかどうかで、意味が変わるの」
「……帰っていないのは、誰なんでしょう」
その問いは、思ったより小さな声になった。
Animaは少しだけ考えるように黙った。
そして、答えではない形の言葉を置く。
「人はね、ぜんぶ持って帰れるわけじゃないの。大事なものほど、置いていく場所が決まっていることがあるから」
「Animaさんも?」
そう訊いたのは、ほとんど衝動だった。
Animaはその問いに、すぐには笑わなかった。
カウンターの奥のガラス棚に目を向け、それからゆっくり文花のほうを見る。
「わたしも、この町に長くいるわ」
そう言ってから、ほんのわずかに言葉を継ぎ足した。
「でも、“いる”って言える時間は、たぶん、そんなに長くないのかもしれない」
意味はわからなかった。
けれど、その言い方だけで十分だった。Animaもまた、ひとつの場所にまっすぐ立っている人ではないのかもしれない、と感じるには。
それ以上は訊かなかった。
訊けば、また彼女はきれいに言葉を引くだろう。今日はそれがわかっていた。
店を出るころには、外はすっかり夕暮れだった。
文花が扉に手をかける。鈴が鳴る。その背中に、Animaの声が落ちた。
「次にいらっしゃるとき」
文花は振り向く。
Animaはいつもの位置に立ったまま、静かな目でこちらを見ていた。
「あの席の方を、よく見てあげて」
どの席、とは言わなかった。
窓際の男の席かもしれない。
本を読む女の席かもしれない。
けれど、その言葉が置かれた角度は、どちらにも届く曖昧さを残していた。
文花は何か返そうとして、やめた。
確かめるには、もう遅すぎる気がしたからだ。
店の外へ出る。
細い路地には、もう夜の気配が降りてきている。
歩きながら、文花は一度だけ振り返った。
ガラス越しの灯りの中で、二人の常連客は相変わらず動かなかった。
ただ、本を読む女の白い指先だけが、ページの端にそっとかかっているのが見えた。
その姿を見た瞬間、胸の奥で何かがわずかに鳴った。
見たことがある、ではない。
ずっと、そこにいたのかもしれない。
そんなふうに思ってしまう感覚だった。
路地の先で、黒猫が一度だけ立ち止まった。
金色の目が、こちらを見る。呼ぶでもなく、待つでもなく。ただ、知っているものを見る目で。
次の角を曲がるとき、文花はふいに、自分がどこへ帰ろうとしているのか、少しだけわからなくなった。


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