
深夜、耳元で「プーン」という羽音がした瞬間、僕は覚悟を決めて布団から飛び起きた。
豆電球の薄明かりの中、目を凝らすと小さな蚊が一匹、行儀よく正座するように宙に浮いている。
「すみません、少々よろしいでしょうか」
蚊が喋った。しかも敬語で。僕は枕を握りしめたまま、動きを止めた。
「私、本日づけで、あなた様の右腕を担当させていただくことになりました、羽音課の者です。つきましては、恐れ入りますが、少々血液の方をいただければと」
「いや、意味がわからない。血液の方って何」
「社内規定でして。まずは検討のほど、よろしくお願いいたします」
検討? 血を吸う前に検討させろと言うのか。
呆れながらもなぜか殺す気になれない。
僕は布団の上に体育座りをして、蚊の話を聞くことにした。
「実を申しますと、我々羽音課には、日々ノルマがございまして。人間様が一日の中で、口に出せずに飲み込んだ苛立ちの数だけ、私どもが一晩に刺す回数が決まる、という仕組みになっております」
「なにそれ、初耳なんだけど」
「本日のあなた様は、上司に三回、聞こえないふりで頷かれたそうですね。ああいうものは、地味に、けっこう溜まりますよ」
図星だった。僕は今日、会議で理不尽な指摘を受けても「おっしゃる通りです」と笑って流した。あのとき飲み込んだ言葉が、まさかこんな形で追及されるとは思わなかった。
蚊はポケットから小さな手帳のようなものを取り出し、ぶつぶつと読み上げ始めた。
「本日のノルマ、右腕二箇所、首元一箇所。ですが、上長からは『無理のない範囲で』とのお達しが出ております。我々も、働き方についてはそれなりに見直しが進んでおりますので」
蚊にまで働き方改革があるのか、と思わず笑ってしまった。緊張していた肩から、少しだけ力が抜ける。
「一句、詠んでもよろしいでしょうか」
蚊は羽を整えながら、しみじみと続けた。
「――昼の蚊や、だまりこくつて、後から、と。ある俳人が、私どもの大先輩のことを、そう詠んでくださいました。音もなく忍び寄るのは、なにも意地悪のためではないのです。ただ、言葉にできなかったものを、代わりに掬い上げているだけで」
思いのほか、しみじみとした物言いだった。腹立たしいはずの相手なのに、なぜか胸のあたりが少しあたたかくなる。
「では、失礼して」
蚊がすっと腕に降り立った瞬間、僕は反射的に手を振り上げた。けれど、寸前で止まる。
「やれ、打つな」
自分でも驚くくらい、素直にそう呟いていた。蚊は嬉しそうに――たぶん――羽を震わせて、ちくり、と一瞬だけ刺した。痛みはあったが、なぜか清々しかった。
「ありがとうございます。それでは、また来月のノルマの時期にでも」
「来月も来るの」
「羽音課は、通年採用ですので」
そう言い残して、蚊はふらふらと窓の隙間から出ていった。
目が覚めると、腕に小さな赤い痕がひとつ。かゆみはあったが、不思議と気分は軽かった。
飲み込んだ言葉のひとつやふたつ、次に会議があったら、ちゃんと声に出してみようと思う。
羽音課の彼にも、そのくらいの報告はしてあげたい。
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