【連載】夢見町の案内人 ― 白藤の残夢 ―第四話 白藤写真館

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朝の机の上に、昨夜拾った写真片が置かれていた。

夢の中のものは、目が覚めればたいてい輪郭を失う。
なのに、それは薄い朝の光の中でちゃんと紙の重さを持っていて、かえって現実のほうが少し頼りなく思えた。
文花は指先でその縁をなぞった。古い写真独特の、乾いているのに柔らかい感触がある。裏返すと、にじんだ文字がまた目に入った。

……ってる

待ってる、と読める気がした。
帰ってる、にも見えた。
どちらにしても、その先を自分が知っているような気がするのがいちばん気味が悪かった。

白藤写真館。


その名を思い出したのは、文字のにじみ方が昔の写真台紙に似ていると思ったからかもしれない。商店街の外れに、古い写真館がまだ残っている。
子どものころ、前を通ったことは何度もあるはずなのに、中へ入った記憶は曖昧だった。

昼前、空は昨日より明るかったが、町の色はどこか薄かった。
文花は写真片を小さな封筒に入れて鞄へしまい、ひとりで家を出た。
商店街の人通りは多くない。
八百屋の店先に積まれたみかんも、古い時計店のガラスも、遠くから見れば穏やかな町の景色なのに、近づくとどれも少しずつ時間の流れからはずれているように見える。

歩きながら、ふとショーウィンドウに映った自分を見た。
少しだけ遅れて動いた気がして、足が止まる。見直すとただの反射だった。
そう思おうとしても、胸の奥のざわつきは消えなかった。

白藤写真館は、古い通りの角にひっそりと建っていた。
木枠の硝子戸、色褪せた看板、窓辺に並んだ家族写真の台紙。七五三の着物姿、学生服の兄弟、夫婦の記念写真。
どの顔も整然と額の中に収まっているのに、その静けさだけが少し過剰だった。
まるで、ここに並んだ人たちだけが、きちんと時間の中に留め置かれているように。

戸を開けると、小さなベルが乾いた音を立てた。

店の中は薄く黄ばんだ光に包まれていた。古い木の床、壁に飾られた額、奥に続く半開きの扉。薬品の名残のような匂いと、長いあいだ紙を仕舞っていた場所の乾いた匂いが混ざっている。

「いらっしゃい」

声は、思ったよりやわらかかった。

カウンターの奥から現れたのは、白髪をきちんと結い上げた年配の女性だった。背筋が伸びていて、手の動きが静かだった。目だけが妙に澄んでいる。

「なにか御用かしら」

「ええと……少し、お訊きしたいことがあって」

文花がそう言うと、女性は一度だけじっとこちらを見た。視線が顔から苗字へ移る前の気配があった。

「あなた、橘さんのお嬢さんね」

文花は小さく頷いた。

「はい。文花です」

「そう。お母さまに、よく似てきたわ」

懐かしむような言い方だったが、その声の奥に、ほんのわずかなためらいが混じった気がした。文花は鞄から封筒を取り出し、中の写真片を差し出した。

「これを、橋の近くで拾ったんです。古い写真みたいで……もし、どこで撮られたものかわかるならと思って」

店主はすぐには手を出さなかった。
まず目だけでそれを見た。
次に、ようやく指先で受け取る。裏返して、にじんだ文字を見る。ほんの一瞬、息が止まったように見えたのは、文花の思い込みではなかったと思う。

「……ずいぶん古いものね」

「わかりますか」

「少なくとも、最近の紙ではないわ」

それだけ言ってから、女性は写真片を光にかざした。表のぼやけた像を確かめるように目を細める。

「このあたりの川辺かもしれないわね。でも、これだけでは……」

言葉を切り、彼女は文花を見た。

「少し待っていて」

奥へ消えていく背中を見送りながら、文花は店内を見回した。壁の写真はどれもきちんと並んでいるのに、ここだけ時間が揃いすぎていて落ち着かなかった。
誰かの成人式の写真の横に、ずっと昔の町並みがある。
古い祭りの山車。制服姿の子どもたち。
笑っているのに、写真の中の人々はみな、二度とその場から動かないことを知っているみたいだった。

やがて店主は、何冊かの厚いアルバムと台紙の束を持って戻ってきた。

「橋の近くで撮ったものは、昔はわりと多かったの。景色がよかったから」

文花の前に置かれたアルバムは重かった。
開くと、少し色の褪せた町の記録が次々に現れる。
春祭り、入学式、家族連れ、川辺の集合写真。
見覚えのない景色のはずなのに、ときおり胸が小さく軋む。
指で写真の角を押さえるたび、懐かしさに似た何かが手のひらへ滲んだ。

一枚、橋のそばで撮られた子どもたちの写真があった。

川を背に、数人の子どもが並んでいる。笑っている子もいれば、目を伏せている子もいる。中央にいる女の子の輪郭を見た瞬間、文花の呼吸が浅くなった。
自分に似ている、と思った。顔立ちがはっきり見えるわけではない。
昔の写真特有のぼやけた粒子の向こうで、前髪の分け方と、立ち方の癖だけが妙に近かった。

「……これ」

思わずこぼれた声に、店主が顔を上げる。

「心当たりがあるの?」

「わかりません。でも……」

でも、その先が言葉にならない。
写真の端に、もうひとり白い服の少女のような影が写っていた。はっきりした顔はない。
ただ、そこに立っていた気配だけがある。人数を数えようとすると、なぜかうまく数えられなかった。多いのか少ないのかすら、見ているうちにわからなくなる。文花は目を瞬かせた。

「昔ね」

店主が静かに言った。

「橋の近くの写真は、ときどき数が合わなくなるって言われていたの」

文花は顔を上げた。

「数が……?」

「見間違いよ。そういうことにしておくのが、いちばん穏やかでしょうけれど」

店主はそう言って、次の写真台紙をめくった。

「白藤の咲く頃は、なおさらね。光がやわらかくて、人の輪郭を曖昧にしてしまうから」

白藤。その言葉に、どこかが冷えた。夢の中で見た白いもの。
橋の上で見た後ろ姿。昨日、Animaの店で閉じられた濃紺のノートにあった、擦れた白い花の模様。

文花はもう一度、さっきの写真を見た。
自分に似た子ども。
端に白い影。
見ているうちに、その白いものが少女ではなく花房のようにも見えてくる。けれど、花にしては立つ位置が不自然だった。

「この子、わたしかもしれないって思ったんです」

自分でも驚くほど小さな声だった。

店主はすぐには頷かなかった。ただ、文花の言葉を否定しないまま、その写真を閉じた。

「昔の写真はね、残るわ。でも、見た人のほうが変わってしまうことがあるの」

それは説明ではなく、ただの感想みたいに聞こえた。けれど文花には、その言葉のほうがよほど真実に近い気がした。

残っているのに、わからない。
消えていないのに、届かない。
揺れているのは写真ではなく、自分のほうだ。

しばらくして、文花は橋の写真が挟まっていた台紙をそっと指した。

「これ、もしできたら……借りることはできますか」

店主はほんの少し困ったように微笑んだ。やわらかな、けれど引き返せない笑みだった。

「それは、あなたのものじゃないから」

文花は返す言葉を失った。
自分の過去に触れかけている気がするのに、それを持ち帰ることはできない。その距離が、かえって奇妙に切実だった。

店主は代わりに、小さな紙袋へ拾った写真片だけを戻してくれた。ありがとうございます、と言って立ち上がったとき、カウンター脇のメモ用紙が目に入った。何気なく走り書きされた数字と短い言葉。その中に、丸みのある“わ”と、少し跳ねる“れ”があった。

わすれないで

そう読めたわけではない。
ただ、その書き癖が、自分の字に妙によく似ていた。

文花は息を呑んだ。見間違いかもしれない。そう思った瞬間、店主がさりげなくそのメモを伏せた。

「お気をつけて」

戸口まで見送る声は、どこまでも穏やかだった。

外へ出ると、午後の光は少し傾いていた。写真館の硝子に町の景色が映り、その中に自分の姿もある。けれど一瞬だけ、硝子の奥にもうひとつ白いものが立っているように見えて、文花は振り返った。誰もいない。

鞄の中で、写真片の端がかすかに指に触れた。

持ち帰れたのは、たったそれだけだった。
それなのに、文花は確かに何かを連れて帰ってしまった気がしていた。


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