
「もう知らない!」
彼女の声が、部屋の空気を切り裂いた。約束していた記念日を、僕がうっかり忘れていたことがきっかけだった。売り言葉に買い言葉で、気づけば互いに、言わなくてもいいことまで口にしていた。
「そういうところ、本当に無神経だと思う」
彼女がそう叫んだ、次の瞬間だった。僕の耳の奥に、彼女の声とは違う、もう一つの声が、そっと重なって聞こえた。
――本当は、傷つけられるくらい大事にされたい。
聞き間違いかと思った。だが彼女が次の言葉を発したとき、また同じことが起きた。
「もう、あなたのことなんて信じられない」
――本当は、誰よりも信じたいから、怖くなる。
僕は言葉を失ったまま、彼女を見つめた。怒りに満ちた表情の奥で、彼女の目が、かすかに揺れている気がした。
「なんで、そんな顔をするの」
「いや……今、なんて言った?」
「だから、信じられないって」
やはり、彼女自身には、あの重なる声は聞こえていないらしい。夢の中だからこそ聞こえる、言葉の裏側なのかもしれない。僕はおそるおそる、口を開いた。
「本当は、誰よりも信じたいから、怖くなる……ってこと?」
彼女の動きが、ぴたりと止まった。
「なんで、それを」
「なんとなく、そんな気がしただけ」
彼女は少しの沈黙のあと、崩れるように肩を落とした。
「そうだよ。忘れられたことが悲しかったんじゃなくて、大事にされてないんじゃないかって、不安になっただけ。それを、うまく言えなくて」
さっきまでの怒りの言葉が、すべて裏返しになって、僕の中に流れ込んでくるようだった。「もう知らない」は「まだ知りたい」で、「信じられない」は「信じたい」。彼女がぶつけてきた言葉は、どれも本当の気持ちを、裏返しにしたものだったのかもしれない。
「ごめん。記念日、ちゃんと覚えておくべきだった」
「うん。……でも、今、ちゃんと気づいてくれたから、いいよ」
彼女は少しだけ笑った。その笑顔に、さっきまでの怒りの気配はもう残っていなかった。
目が覚めると、隣で眠る彼女の寝顔があった。夢の中の言い争いのことを思い出しながら、僕はそっと呟いた。
「怒っている言葉ほど、裏側に本当の気持ちが隠れているのかもしれないな」
その日の帰り、僕は花を一輪買って帰った。理由は聞かれなかったけれど、彼女は少しだけ驚いた顔をして、それから、いつもより長く微笑んでいた。
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